日本古代史関係研究文献目録データベース
小口雅史編
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741. 池田 三枝子 筑紫歌壇はどうして形成されたのか|大伴旅人はなぜ晩年まで歌を詠まなかったのか|山上憶良は渡来人だったのか|山上憶良はどこまで仏教を理解していたか|大伴坂上郎女は恋多き女だったのか|大伴坂上郎女は家持に何を教えたのか|山部赤人はどのような思いで聖武天皇の行幸従駕歌を詠んだのか|高橋虫麻呂は「伝説」をうたったか|高橋虫麻呂は
常陸
の風土をどのように見ていたのか|遊行女婦はいわゆる遊女か|長意吉麻呂はなぜ意味不明な歌を詠んだのか
刊行年:2000/10
データ:『万葉集101の謎』 新人物往来社 万葉歌人をめぐる謎
742. 中村 禎里 古代の狐観念|辰狐の誕生(ダキニ天と狐|辰狐の意味|要約と結論)|室町時代支配階級の狐付き(狐付き事件の総覧|足利義持狐付き事件|事件に弄ばれた人びと)|鳥羽上皇の寵妾(玉藻前伝承の内容|伝承構成話柄の分析|仏舎利と針|宇治の宝蔵とうつぼ舟|結論)|安倍晴明の母(陰陽書と狐|
常陸
から和泉へ|近世における修飾)|戦国武将と狐(館林城の狐|長壁神と狐|信玄・謙信・秀吉|要約と結論)|文献(明治以後)|古代・中世・近世文献の出所
刊行年:2001/06
データ:『狐の日本史』 古代・中世篇 日本エディタースクール出版部
743. 山野井 功夫 義経をとりまく兄弟-頼朝をはじめ、なんと九男二女が…|常盤御前が産んだ子供たち-今若は
常陸
へ配流、乙若は墨俣で敗死|常盤が再嫁した一条長成-義経の「異父」兄弟たち|黄瀬川の陣中で兄頼朝と対面-父頼朝の怨みをはらすことをともに誓うが…|正室は河越重頼の女-妻子もともに衣川館で自害|義経の義父となったために狂った運命-正室の父河越重頼|諸説ある義経の四天王?-多い山賊出身に僧兵上がりなどの無法者|弁慶は実在の人物か?-本当に出会ったのは、五条天神だった|史料には出てこない「金売り吉次」の名-平泉までの旅の案内者|義経の四天王?鎌田兄弟-父正清は源義朝とともに成長し、一の郎党に
刊行年:2005/01
データ:別冊歴史読本 30-1 新人物往来社 義経をめぐる人々の謎
744. - 東大寺山堺四至図(東大寺の寺域図)|東大寺山堺勅定(東大寺の寺域をしるした文書)|勅書銅板(銅板に刻まれた聖武天皇の願文)|正倉院古文書 正集第六巻(越前国司牒、生江息嶋解ほか)|正倉院古文書 正集第四十三巻(筑後国正税帳、豊後国戸籍、薩摩国正税帳)|正倉院古文書 続修第十三巻(隼人計帳)|正倉院古文書 塵芥文書第三十二巻(
常陸
国戸籍)|正倉院古文書 続修後集第一巻(市原宮御願経関係文書)|正倉院古文書 続々修第一帙第三巻(一切経校生等手実)|東南院古文書 第三櫃第二巻(伊賀国玉滝杣関係文書)|詩序
刊行年:1994/10
データ:『正倉院展目録』 第四十六回 奈良国立博物館 図版 解説
745. 工藤 雅樹 はじめに∥大化の改新以前(「エミシ」「エゾ」の諸段階〈蝦夷の歴史〉|第一段階〈『古事記』『日本書紀』の物語|ヤマトタケルの物語|倭王武の上表文〉)|第二段階〈国造制の時代|国造制の成立|国造軍の外征|国造の「クニ」|上毛野氏の物語|阿倍氏・大伴氏・中臣氏|福島県の装飾横穴|蝦夷との交渉〉)∥大化の改新と陸奥国(大化の改新と「東国国司」〈大化の改新|東国国司|国造の「クニ」の解体〉|『
常陸
国風土記』を読む〈
常陸
国の成立と「コホリ」の設定|陸奥国の成立と福島県内に置かれた「コホリ」〉|国司制の成立と国府〈国司制|国府|陸奥国府|石城国・岩背国の建置と廃止〉|郡司と郡衙(「コホリ」|郡衙|神火|福島県内の郡|郡衙の遺跡|白河郡|磐瀬(石背)郡|安積郡と安積の采女|安達郡|信夫郡|伊達郡|菊多郡|磐(石)城郡|標葉郡|行方郡|宇多郡|宇多・行方の鉄|会津郡と会津国設置計画〉|里(郷)〈里(郷)|陸奥国戸籍|郷里制の時代|『倭名抄』の郡・郷〉|白河関・菊多関〈白河関|白河関・菊多関の遺跡|歌枕|関()|白河関・菊多関の起源〉)∥城柵・軍団(城柵の造営と移民の導入〈城柵|城柵の性格|城柵の構造|城柵の造営|移民〉|軍団制〈軍団制のあらまし|陸奥国の軍団|征討軍〉)∥あとがき
刊行年:2001/09
データ:『律令国家とふくしま』 歴史春秋出版
746. 古川 元也 青岸渡寺御正体(松喰鶴文・線刻千手観音)|新宮寺一切経|新宮寺大般若波羅蜜多経 巻四七三|新宮社沙弥圓和沙汰状(文治五年十月十二日)・石橋棟義願文(永徳四年五月十九日)|吉良貞家寄進状(文和二年四月九日)|新宮社吉良貞経寄進状(文和二年七月十五日)・平泰経寄進状(暦応四年十二月十九日)|経筒|熊野本宮大社越後国諸郡檀那願文帳(建徳三年五月二十八日)|熊野神社牛玉宝印版木(応永二年四月開版・応永三年)|西光寺持蓮華|清浄光寺安食問答|鉦架支板|称名寺金沢貞顕自筆書状・氏名未詳書状・静恵書状(紙背)・氏名未詳書状(「横帳四」紙背)|称名寺熊野三所御正躰釈為除病・熊野三身・熊野十二所権現御正躰釈・熊野権現口決雑記私・熊野山参詣作法・熊野山祓殿阿弥陀寺勧進状|称名寺加賀国軽海郷年貢済物結解帳・上総国周東郡内称名寺領年貢請文(元徳三年三月十三日)・上総国周東郡波多沢村年貢注進状(応安四年九月十日)|称名寺武蔵国品河湊船帳(明徳三年八月)|天妙国寺鎌倉公方足利成氏判物(至徳二年十一月十四日)|熊野本宮大社諸国檀那願文帳(正平十八年□月十六日・貞治六年三月二日)・上野国沼田荘檀那願文(正平二年二月四日)・
常陸
国真壁郡檀那願文(応安四年十一月二十一日)・鎌倉六浦出羽房請文(明徳四年三月二日)|熊野本宮大社『能里帳』上(上野国高山荘檀那願文(建徳二年一月二十四日)・上野国長野
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寺住人願文(明徳三年十一月二十六日))|『神道集』|覚園寺文書|大川戸熊野神社文書|神武寺千手観音菩薩像|師岡熊野神社縁起書(貞治三年五月)
刊行年:2005/10
データ:『聖地への憧れ-中世東国の熊野信仰』 神奈川県立歴史博物館 列品解説
747. 木下 良 山城国府|大和国府|河内国府|和泉国府|摂津国府|伊賀国府|伊勢国府|志摩国府|尾張国府|参河国府|遠江国府|駿河国府|伊豆国府|甲斐国府|相模国府|武蔵国府|安房国府|上総国府|下総国府|
常陸
国府|近江国府|美濃国府|飛騨国府|信濃国府|上野国府|下野国府|陸奥国府|出羽国府|若狭国府|越前国府|加賀国府|能登国府|越中国府|越後国府|佐渡国府|丹波国府|丹後国府|但馬国府|因幡国府|伯耆国府|出雲国府|石見国府|隠岐国府|播磨国府|美作国府|備前国府|備中国府|備後国府|安芸国府|周防国府|長門国府|紀伊国府|淡路国府|阿波国府|讃岐国府|伊予国府|土佐国府|筑前国府|筑後国府|豊前国府|豊後国府|肥前国府|肥後国府|日向国府|大隅国府|多国府|薩摩国府|壱岐国府|対馬国府∥(研究概況)
刊行年:1989/03
データ:国立歴史民俗博物館研究報告 20 国立歴史民俗博物館 国府研究の現状(その二)
748. 関根 真隆 佐保路(慶雲|遷都|八坊・九条|平城宮のなか)|耕耘るわざ、紡蚕ぐわざ(それ
常陸
国は|植ゑし田|蒔きし畠|北の海に在るところの雑の物|未通女らが織る)|王位久安ならず(赤漆文欟木厨子を伝え賜う|肌膚爛れ敗れ|途は泥にして|暁夜争い行く)|金光明最勝王経と妙法蓮華経(南天竺・西天竺・北天竺|仏|法|僧|冥界)|み雪降る越(家持|秋以後|雨は降り来ぬ|忘るることなき志を遺す)|法と金・銀・瑠璃(菩提僧正、流沙を渉りて到る|西方への道|葱嶺を越えて|海上の道|大陸と半島)|罪し廃せらるる者多し(謹んで盧舎那仏に献ず|不改常展の終り)
刊行年:1982/05
データ:『万葉流転-寧楽史私考』 教育社
749. 池田 三枝子 山部赤人の「田子の浦ゆうち出て見れば」の歌は『百人一首』の歌とどう違うのか|「咲く花の薫ふがごとく」の歌は平城京讃歌か|「麻手刈り干し布さらす東女を忘れたまふな」と詠んだ
常陸
娘子は農民の娘か|大伴家持はなぜ女性からの恋歌に返事しなかったのか|貧窮問答歌は古代農民の姿の実写か|志貴皇子の懽びの歌には何か別の意味が隠されているのか|「夕されば小倉の山に」の歌の作者はだれか|高橋虫麻呂の浦島伝説を詠む歌にはなぜ亀が出てこないのか|万葉の相聞歌にはなぜ序詞が多いのか|万葉の相聞歌にうわたわれる恋のマジックにはどのようなものがあるか|『万葉集』にはなぜたくさんの七夕歌が残されているのか|万葉の相聞歌はなぜ「人自・人言」を歌うものが多いのか|日本は「言霊の助くる国」だったのか|巻十四の東歌は東国の民謡か|巻十五の遣新羅使人たちは帰路になぜ寡黙になったのか|巻十五の中臣宅守と狭野弟上娘子との恋は虚構か|安積山の歌はほんとうに采女が作ったのか|穂積皇子の歌は恋の苦しさを歌うものか|複数の男性に求婚された伝説の処女たちはなぜ自殺しなければならなかったのか
刊行年:2000/10
データ:『万葉集101の謎』 新人物往来社 万葉の歌をめぐる謎
750. 森 浩一 時間をどう記述したか(『
常陸
国風土記』の時間記述|天皇の名か、宮の名か?|「元号」の使用はいつからか|『日本書紀』における元号記述)|銅鏡の「年代」をめぐって(「年号」鏡は年代の定点にできるか|「景初三年」銘銅鏡は〝卑弥呼の鏡〟か|銅鏡の銘文に対する心がまえ|神原神社古墳の「景初三年」銘鏡|「景初四年」銘鏡-完全な銘文-の発見|「青龍三年」銘の方格規矩鏡ー舶載か製か|伊都国の方格規矩鏡|「方格規矩鏡」を考える|「青龍三年」の国際情勢)|諸所に刻まれた年号(刀剣に刻まれた年号〈東大寺山古墳の刀の「中平□年」銘/埼玉稲荷山古墳の剣の銘文/江田船山古墳の刀の銘文〉|関東の文字文化-上野三碑の年号と銘文〈那須国造碑の銘文/上野三碑の銘文〉|石上神宮の七支刀の銘文|隅田八幡宮の「癸未年」銘の人物画像鏡〈百済の斯麻王大墓をめぐって/河内での青銅器の製作/銘文は現物に即して読む〉)|「暦」はどのように使われたか(干支の使用|漆紙文書と暦|干支六角柱と菅江真澄〈秋田の埋没建物/記憶のメモ用の干支六角柱〉|「大化」は最初の元号か〈宇治橋建造と「大化二年」/舟橋と山崎橋/上毛野の佐野の舟橋/道登と高句麗の大同江の大橋/再び宇治橋と大化の元号〉)
刊行年:2007/10
データ:『古代史おさらい帖-考古学・古代学課題ノート』 筑摩書房 年代の見方
751. 菱沼 右一 江戸以前の東京と関八州(アイヌ地名|湾の地名|関東平野|東、吾妻|吾妻湾から品川湾|鬼怒と吾妻は山人と海人|坂田の金時|筑波も「紀の国」であった|埼玉、上妻、中妻、下妻|多摩|埼玉、児玉、熊ヶ谷|荒川|利根川|武蔵、相模|愛宕、安高、足立、田子、多古|厚田、安土、安寺|湾頭の大都市とその名|富士、ニシパ、サパ|徳島、厳島|足柄、箱根、丹那|鎌倉、江島、小田原|神人化された大山嶽の名|神名と人種及部落民の名|民族名と部落名|信濃、上野、下野、東|二荒、宇都宮|毛野川|
常陸
、日高見|信濃、千曲、茶臼|信州の発補温泉、志賀高原|伊香保、渋、塩原|富津、布佐|総国、安国|千葉、木更津、犬吠、銚子|品川湾とその周囲|越国|茨城と蛇神|風土記の茨城の里|小原村附近|風土記の茨城解説|水戸の由来|波良伎は蛇か?|伊吹山もイパラキである|県主|国巣の言葉|台、塙、箕ノ輪|出雲|福島|猪苗代湖|長瀞|手代、手代木、田代|鳥海、猿羽根、羽黒|鶴見、鶴巻|北海道から樺太まで|那珂、那賀、奈加、那智)|江戸以前の東京(江戸往古之図|江戸|五大岬|忍ヶ岡、下谷、上野|不忍池|日暮里、根岸|台、高輪、下谷、上野|田端、駒込|神田、根津|妻恋、戸隠|牛込、小石川、小日向|牛込、牛ヶ淵、牛天神|牛天神|音羽|浅草とその周囲|浅草とは、どんな意味か|言問と牛頭、牛御前|品川湾とその周囲|牛頭天王、兜神社、紐神社|牛天神と忍ヶ森|本所、深川、牛島|寄木神社|大森の貝塚 大井|目黒、目白|愛宕、日比谷、宇田川|下田、三田、伊皿子|東閑森と池上|隅田川)|地名の新研究(駒込、丸山、小山、駒ヶ嶽|駒形|荒砥と左澤|倉、鞍、久良、久留|キンジヤマ|鬼倉、佐葉倉、羽黒、小掠、小倉、佐倉、佐羽根倉|早稲田と鶴巻、長谷と鶴ヶ崎|駒込、駒形、小牧、本郷の研究の経路|形と牧|花巻|後閑|生活と信仰と感謝に即した日本の国名|茨城の意義)|北海道樺太地名考(北海道地名|樺太名稱の由来|アニワ灣名稱の由来|樺太の地名)
刊行年:1939/11
データ:『アイヌ語よりみた日本地名新研究-江戸以前の東京』 中央情報社 復刻:第一書房(1982/04)
752. 阿部 猛 農業経営(名田経営論|苗代|門田|便宜要門田|田植|棚田|焼畑|池|井料|畠|屋敷地|林|早稲・中稲・晩稲|片荒|散所|塩浜|水争い|噴火災害|女堀|荘園と村落)|古代の荘園(〈山城国〉石垣荘|石原荘|大住荘|岡屋荘|巨倉荘|小野荘|鶏冠井荘|笠置荘|笠取荘|上桂荘|賀茂荘|木津荘|芹河荘|曾束荘|薪荘|橘園|玉井荘|富坂荘|真幡木荘|前瀧荘|物集荘|山田荘|山田牧|〈大和国〉安堵荘|池田荘|生馬荘|石名荘|出雲荘|櫟北荘|櫟本荘|井上荘|今井荘|今木荘|宇野荘|笠間荘|春日荘|河上荘|喜殿荘|清澄荘|小東荘|簀川荘|高殿荘|長瀬荘|長屋荘|飛騨荘|檜牧荘|広瀬荘|藤井荘|水間杣|山口荘|〈河内国〉石川荘|会賀牧|大江御厨|楠葉牧|郡荘|玉串荘|古市荘|星田荘|〈和泉国〉網曳御厨|地黄御園|信達荘|春木荘|日根荘|〈摂津国〉猪名荘|榎並荘|倉橋荘|宿久荘|新羅江荘|多田荘|垂水荘|垂水牧|長洲御厨|水成瀬荘|輪田荘|〈伊賀国〉伊賀神戸|板蠅杣|柏野荘|国見杣|黒田荘|薦生荘|玉瀧荘|柘植荘|鞆田荘|中村荘|山田荘|湯船荘|〈伊勢国〉大国荘|川合荘|曾禰荘|益田荘|寛御厨|〈志摩国〉木本御厨|〈尾張国〉安食荘|一楊御厨|小弓荘|長岡荘|〈参河国〉吉良荘|志貴荘|吉田御園|〈遠江国〉池田荘|蒲御厨|質侶荘|初倉荘|〈駿河国〉益頭荘|〈甲斐国〉甘利荘|大井荘|八代荘|〈相模国〉大庭御厨|糟屋荘|成田荘|波多野荘|早川牧|〈武蔵国〉稲毛荘|船木田荘|〈安房国〉群房荘|丸御厨|〈上総国〉二宮荘|藻原荘|〈下総国〉印東荘|大戸荘|葛西御厨|神崎荘|下河辺荘|相馬御厨|〈
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国〉信太荘|下妻荘|吉田荘|〈近江国〉伊香立荘|愛智荘|大浦荘|香荘|勢多荘|土田荘|覇流荘|水沼荘|野洲荘|〈美濃国〉茜部荘|明智荘|大井荘|平野荘|〈飛騨国〉白川荘|〈信濃国〉塩田荘|〈上野国〉薗田御厨|高山御厨|新田荘|淵名荘|〈下野国〉足利荘|佐野荘|梁田御厨|〈陸奥国〉安達荘|信夫荘|高鞍荘|〈出羽国〉大曽禰荘|成島荘|屋代荘|遊佐荘|〈若狭国〉国富荘|太良荘|宮川荘|宮川保|〈越前国〉足羽荘|牛原荘|大蔵荘|方上荘|河口坪江荘|糞置荘|栗川荘|桑原荘|鯖田国富荘|曾万布荘|高串荘|道守荘|鎧荘|〈加賀国〉高羽荘|得蔵荘|額田荘|幡生荘|横江荘|〈能登国〉菅原荘|土田荘|若山荘|〈越中国〉石粟荘|石黒荘|井山荘|大荊荘|鹿田荘|狩城荘|須加荘|鳴戸荘|丈部荘|〈越後国〉石井荘|白河荘|豊田荘|〈丹波国〉大山荘|雀部荘|後川荘|多紀荘|波々伯部保|宮田荘|山国荘|〈但馬国〉温泉荘|〈因幡国〉高庭荘|〈伯耆国〉宇多河荘|〈出雲国〉揖屋荘|母里荘|〈播磨国〉赤穂荘|有年荘|大部荘|小犬丸保|椙原荘|田原荘|矢野荘|〈備前国〉香登荘|鹿田荘|〈備中国〉足守荘|〈備後〉太田荘|小童保|〈安芸国〉安摩荘|可部荘|志道原荘|竹原荘|三田荘|壬生荘|吉田荘|〈周防国〉伊保荘|竃戸御厨|多仁荘|椹野荘|〈長門国〉厚狭荘|向津具荘|〈紀伊国〉阿河荘|荒川荘|石手荘|相賀荘|田荘|賀太荘|官省符荘|神野眞国荘|木本荘|栗栖荘|粉河荘|山東荘|志富田荘|隅田荘|野上荘|湯浅荘|吉仲荘|〈阿波国〉篠原荘|富田荘|名東荘|新島荘|〈讃岐国〉多度荘|富田荘|〈伊予国〉大島荘|新居荘|吉岡荘|〈筑前国〉安志岐荘|植木荘|碓井荘|釜生荘|博太荘|把岐荘|山鹿荘|津隈荘|長野荘|貫荘|〈豊後国〉玖珠荘|〈肥前国〉宇野御厨|太田荘|川副荘|神埼荘|佐嘉荘|藤津荘|〈肥後国〉阿蘇社|鹿子木荘|山鹿荘|〈日向・大隅・薩摩国〉島津荘)
刊行年:2005/09
データ:『日本古代史事典』 朝倉書店 荘園・公領と武士